イエス・アイアム・インターネット(インターネットの話)


昨今の私たちの生活とインターネットとの結びつきは凄まじく、気がつけば誰もが息を吸うようにインターネットの世界にアクセスをして、当たり前のように交流をするようになった。キーボード/マウス/タッチパネルと言った入力デバイスと通信によって私たちの意思が相互に繋がることに、もはや真新しさはまるでない。インターネットと、そして私たちの過ごすSNS(Social networking service)のような世界は目まぐるしく発展/拡大し、昨今ではそこにともなう社会的な問題が取り沙汰されることも珍しくなくなった。

ところで、アニメオタクとしてアニメを見ていると、このようなSNS上での問題が取り上げられる描写を見かけるようになった。
これを書き始めた頃が2024年春季なので、これは『夜のクラゲは泳げない』や『声優ラジオのウラオモテ』といったアニメが念頭にあるのだが、それ以降もやはりちらほらある。そしてそこで描かれるインターネットは、身勝手な危うい世界であり、(ここではメインの登場人物が関わる)出来事やニュースに対して、非当事者であるネットユーザーは口々に勝手な意見を表明する。

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一方で「光」のインターネットもあった――悲しき格闘家「ファン・ミンギ」を激励するネットユーザー
『喧嘩独学』 12話より

インターネットにずっと親しんできた人間としては、いやいや、インターネットってそんな悪意に満ちたものだけではないですよ、なんて言いたくなる気持ちもなくはないのだが、これが現代の世相を反映したものであるのも確かだ。
試しに現X(エックス)で――かつてTwitterと呼ばれていた場所で――ちょっとした話題のニュースを検索してみてもいいし、あるいはニュースサイトのコメント欄を覗いてもいい。まさにアニメで描かれているような、スラム・インターネットが広がっていることが確認できるだろう。もちろん、全部が全部そうだとは言わないけれど。
見ている範囲では「まーたインターネットの悪意だよ」なんて揶揄されることも多いアニメにおけるネットユーザー関連のシーンだけれども、実際に現代の問題を反映しているというのは間違えないのだろうと思う。


さて、ふとインターネットが普及してきた頃のアニメでのネット描写はどうであったか気になった。そこで、先日久々に「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」をレンタルして視聴してみた。コンピューターウイルスめいた謎の危険な新種デジモンがネットに現れたことから始まる世界の危機を救うという作品だ。

この映画はとにかくロケーションが素晴らしく、新種デジモンに積極的に対抗する太一と光子郎は太一の家からネットにアクセスしてデジモンと戦うのだが、主軸となるこの二人はその閉じた単なる生活空間にずっと居るにもかかわらず、新種デジモンの進化によってどんどん問題は世界規模になっていく。このような、インターネットによってもたらされるミクロとマクロ(私たちが部屋に居ながら/世界規模の話に接続される)ことのギャップがある。タイトルの「ぼくらの」の通り、子どもたちだけの戦いというのも相まって、ひと夏の不思議な体験といった趣がある。

部屋に居ながら世界とつながることができることは(特に、当時の少年少女にとっては)まだどこか神秘的ですらあった当時のインターネット観を反映しているものであり、まだインターネットがもう少し珍しかった時代を思い出させる。作中では「島根にパソコンなんてあるわけないじゃん」と言われるシーンがあるのだが、1999年ならまだしも、流石に現在には島根でインターネットに接続されたパソコンを探すというのは難しくないだろう。そもそも全員スマートフォンを持つ時代だ。
まだほんの15年ほど前の作品だが、既にインターネットを取り巻く環境の移り変わりというのは、隔絶の感もある。

また、本作には無邪気なネットユーザーたちによって太一たちが危機に陥る、というシーンがある。ここの描写が優れているのは「善意のネットユーザーの送る応援メッセージのデータによって、回線が重くなる」という「インターネットの悪意」ではなくいわば「インターネットの善意」が危機をもたらしているところだ。
これは様々な事情を知らないネットユーザーが無意識に徒党を組んで巨大なクラスタを形成することそのものの危険性を純粋に描いている。すなわち、大衆の悪意による展開よりも、更に一歩深く問題の本質的な部分へと進んだ上で、インターネットと人々のあり方について警鐘を鳴らしていると言える。インターネットが普及してきた頃といえ、1999年の時点でこの描写はなかなか先進的だったのではないかと思う。しかしながら、やはり2024年のインターネットとして描くのであれば、大衆が無邪気に振りかざす敵意のほうが、ストレートな問題とも言えるかもしれない。

ネットで世界中の人々、あるいは未知なる新種のデジモンともすら「繋がれてしまう」ことの恐ろしさを描いていた本作であるが、ここで戦っている太一と光太郎の障壁としては「夏休みで仲間と連絡が取れず集合できない」という、逆に「繋がれない」ことが問題になっているのも面白い。
特にケンカ中の太一と空に関しては、その繋がれないことは技術的な理由でなく、感情的なものから来るものだ。この距離は誰もがスマートフォンを持つようになった現代でも成立しうることであり、結局のところインターネットをやっているのはヒトなのだ、ということもまた考えさせる。


名前も顔も知らない大勢の人と繋がれてしまう反面、やはりインターネットをしているのは名前も顔もある一人一人のヒトなのだ――そんなことを感じさせるアニメの話も紹介したい。2021年作のテレビアニメ『BLUE REFLECTION RAY / 澪』第5話「なにもみえないわたし」のエピソードだ。人の心を癒せる能力者「リフレクター」を探して、主人公グループはネットのチャットサービスでお悩み相談室を開き人気を博している「由紀姫」というアカウントの正体を探ろうとする。この時主人公グループ内にて発生していた問答には、ネットの危険性と利便性、2つの側面が端的に表現されており、少々引用する。

百 「みんな気軽に自分のこと話して大丈夫なのかと思ってさ。限定っていっても、登録すりゃ誰でも見られるんだろ? なのに個人情報がだだ漏れっつうか。」
都 「そういう気軽な場所だからこそ、話せることもあるのよ」
百 「私にはわかんないな。その話す相手って、本当の顔も名前もわかんないんだろ?」
都 「それは……そうだけど。いつでもそこには誰かがいて、つながれることが大きいのよ」

『BLUE REFLECTION RAY / 澪』 第5話「なにもみえないわたし」


ここで百は祖母に育てられておりかなり古風な価値観の人なのだが、その疑問はネットの危険性を的確に指摘しているものでもある。一方で都は今風の考えを持っていて、ネットの利便性と、それによってもたらされるつながりを説いている。
さて、エピソードではこの後都たちが正体を探っていた「由紀姫」が危機に陥ってしまい1、そこで都はチャットアプリを通じて由紀姫とアプローチを取ることを試みている。そして都の内心を吐露しつつ呼びかける懸命なメッセージを受け、由紀姫はぽつり、ぽつりと応答する。病弱で人と接する機会を持てなかった彼女は、インターネットに繋がりを求めていたのだ。「そんな私が現実を……私を忘れていられるのがこの世界だった」「どれだけ繋がったとしても、認めてくれたのは『由紀姫』であって、私じゃない」「大切な繋がりだった」「一人になりたくなかった」

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由紀姫(左)と都(右)
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』 第5話より

ここでのお話の流れとしては、やはり匿名性故に気軽で軽薄なネットのみの繋がり(大勢と由紀姫の繋がり)と、その人そのものに向き合おうとする強固な繋がり(都と由紀姫の繋がり)というものは対比されているようにも思う。しかしながら、ここで都は他のネットユーザーと同様にチャットで由紀姫との繋がろうとしている。インターネットとは手段であり、私たちは冷たいモニターの光を通じてしかそれを感じられないが、結局のところそこには一人一人の人間がいるのである。都がそうしたように、無責任な匿名の人たちにも、本来顔も名前も当然あるのである。

アニメなどにおけるインターネットでの炎上描写が責められている側目線になりがち故に、見落とされてしまいそうだと私が感じているのはここだ。ネットの意見が炎上サイドを追い詰める舞台装置的に用いられるたびに、この通信の先には一人一人のヒトがいるのだという事実が、どんどん希薄になるように思う。(ネットに触っている"わたしたち"はどうあがいてもヒトという事実が毎秒あるにもかかわらず!)
ネットユーザーの心無い意見が問題となることは現実にあり、徒党を組んだネットユーザーが意図的でなく不相応な巨大な力を持ってしまうこともある。それでも、私たちは同時に、ネットというのは結局のところヒトによるものなのだという、この当たり前の事実を再認識すべきでないか、と思うのである。

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都のメッセージを読む由紀姫
『BLUE REFLECTION RAY / 澪』 第5話より

さて、私もそこそこ長年インターネットをやってきている。ネットのいちサイトの掲示板を眺めるところから始まって、かつての2ちゃんねる、かつてのTwitter、今は更にMisskeyだとかBlueskyだとかを覗くこともある。そこで一つ思うのは、良し悪しにかかわらず、インターネットの今までの繋がりがあって今の私があるな、ということである。特に人に救われただとか劇的なエピソードがあるわけでもない、しかし近場に偶然いたネットユーザーからの僅かな反応を糧にここまでずーっとやってきているな、と思うのだ。これは間違えなく、インターネットによって「繋がれる」ことの力そのものじゃないかと思うし、すごいことだと思う。
まぁインターネットがなければもうちょっと現実世界で社交的だったんじゃないか、と思わなくもないが、もっと酷いことになっていた可能性だってある。それはifの話なので、誰にもわからない。

だから私が言いたいのは「インターネットをやめましょう」なんて無責任な発言はよして、「これからもインターネットをやって、個々の繋がりで極めて緩やかで軽やかな相互扶助をやっていきましょう」と、そういうことである。だって私たちは、インターネットで生きて、インターネットで育ってきた人なのだから。

そしてその方法の一つというのが、こうして個人サイトに駄文を投稿して、皆様のわずかばかりの反応を糧にするという、狭く古風なインターネットの姿なのではないだろうか。そんなことを考えながら、これを書いているワケだ。


©コーエーテクモゲームス/AASA

©PTJ cartoon company・金正賢/LDF・喧嘩独学製作委員会


  1. マゾっ子ウタちゃんについて解説すると話が逸れすぎるので省略。気になる方は是非5話を視聴してみて欲しい。 ↩︎