『もめリリ』の死生観 ―アニメ『もめんたりー・リリィ』読解―
※本記事にはアニメのネタバレを含みます
はじめに: 『もめんたりー・リリィ』とは?
『もめんたりー・リリィ』 これはどういう意味がある言葉なのだろうか。
このタイトルの言葉を分離すると「Momentary」「Lily」すなわち「束の間の・ユリ」といったような意味となる。ここで「lily(ユリ)」が指すものは、本作に登場する人物「河津 ゆり」を指す言葉であろう。では「momentary(束の間の)」とはどういうことか。アニメを見た人であれば想像がつくと思うが、これは2話でこのゆりが命を落とす、という出来事と紐づいていると思われる。つまり「束の間」であるのは、ゆりが生きて皆と過ごしていた時間、と解釈することができるだろう。
そして、主人公グループ内で中心的な役割を果たしていたゆりの死というのは、このアニメの物語において、非常に大きな影響を与えてゆく。
ここで、ゆりが命を落とすのは2話のラストシーンだ。そこから続く3話は、そんなゆりの生前の記憶が語られる回となった。
そこで、れんげたち主人公グループの面々は、ひとしきりゆりの思い出を語り、そして彼女のことを覚えているため、彼女が生きていたことを抱きしめるために、ゆりが生前やりたかったことをやっていこう、という話になる。その一つが、れんげ、あやめ、さざんか、ひなげし、えりか、ゆりがいる、このチームの名前を決めるということだった。
れんげ「ゆりちゃんの名前、入れたいです」
さざんか「ゆりちを忘れないって感じ?」
えりか「メメント・ゆり?」
ひなげし「メメント・ゆり……長ぇ。MMYでいいだろ」
さざんか「MMY……えみゅーでよくね?」(『もめんたりー・リリィ』3話)
このチームの命名で『もめんたりー・リリィ』のタイトル回収を挟むのかと思いきや、アルファベットだけ共通の「MMY(えみゅー)」という名前に決まった。結局この後も作中で「Momentary Lily」の言葉は出てこないわけだが、「メメント・ゆり(Memento Yuri)」が語感が似通う言葉であるのは、意図的な重なりであると思われる。更には「メメント・ゆり」がラテン語の有名な成句「メメント・モリ(Memento Mori)」を意識したものというのも、流石に無理のない読みだろう。1
すなわち『もめんたりー・リリィ』というタイトルには「Momentary Liry」「Memento Yuri」「Memento Mori」という似通った3つの言葉が背景にある。一度、各単語を羅列しておく。
単語 | 意味 |
---|---|
Momentary | 束の間 |
Memento | 忘れない(ラテン語にて「思い出せ」) |
Liry(Yuri) | 百合(河津 ゆり) |
Mori | 死 |
ここで「momentary / memento」と「liry(yuri) / mori」の組み合わせによって、指すことはほぼ同じだ。ゆりと過ごした時間が「束の間」になったのは、「ゆり」の早い「死」を受けてである。故にそれを「忘れない」のである。
「束の間のゆり」「ゆりを忘れない」「死を忘れない」全て、ゆりの早すぎる死を悼んだ言葉と言えるだろう。
さて、このようにタイトルになっているように、本作において「人の死」というのは大きな一つのテーマであるように感じられる。まずはここを軸に『もめんたりー・リリィ』という作品が何を描いていたのかについて考えていきたい。
ゆり「ずっと一緒にいよう、ずーっとね」 ・ 『もめんたりー・リリィ』1話より
『もめんたりー・リリィ』と「死」
謎の存在「ワイルドハント」によって次々と人間が消されてしまい、人間社会が崩壊している極限状態のもめリリの世界において「死」というのは極めて身近な危険である。
また、前述の通り大切な仲間であるゆりの「死」という出来事を経たれんげたちは、その「死」を受け止め、彼女のために墓を作り、そして彼女の遺志を次いで、ワイルドハントとの戦いと、生存者を求めての探索を続けてゆく。更にはそうして終盤、ゆりの遺志を受け継がんとしたれんげもまた、限界を超えて命を落としてしまう。このように、『もめリリ』の物語には、いつも誰かの「死」がつきまとっていると言える。
しかし、この筋書きだけではこの『もめリリ』がなんとも悲劇的な物語に映ってしまう。無論、ゆりの死も、れんげの死も、悲劇的であることには変わりない。しかしながら、上記の説明だけでは、本作の重要な構造を拾えていないだろう。
序盤の2話でゆりが命を落とした時、彼女は仲間との時間が絶命によって喪われていくことを悔やみつつ「楽しいのに、死んじゃうんだ」と語っている。一方、終盤の12話で命を落とすれんげの言葉は「死んじゃうのに、楽しいんだね」と、どこか満足げな言葉になっている。ここで最終的には命を落とすれんげにとって、いかなる心境の変化があったのか。作品におけるこの重要なシーンを踏まえつつ、本作の取り扱ってきた「死」について紐解いていきたい。
皆に看取られながら息絶えるゆり ・ 『もめんたりー・リリィ』2話より
さて、『もめリリ』作中において、この「死」というのは2種類あるということについて、まずは触れておきたい。1つは、通常の、肉体が機能を停止する生物としての「死」である。この「死」を経た人間は死体が残り、「死」という結果がはっきりと残っている。現実においても存在する、リアルな「死」である。
一方でもう1つの「死」は、人間たちを排除するシステムである怪物、ワイルドハントによる「消去」だ。ワイルドハントによって「消去」された人間は、何も残らずに忽然と消えてしまうのだという。作中の言葉ではこの「消去」について「この世界からいなくなって」(1話)とも表現されており、これは明確に単純な肉体の死とは区別されているように思える。
もちろん、死にゆく人間を主体とした場合、肉体の機能停止と、肉体の消失というのは、どちらも大差がないと言える。これらは生が途切れるという意味で、どちらも変わらぬ「死」である。しかしながら、その死を認識する他者にとっては、この両者は性質が異なる。肉体の機能停止は、その死体によって、「死」を認識することができる。すなわち、死んだという事実が"遺る"のである。
5話で、さざんかとれんげが、一時的な拠点として利用するために訪れた学校で、恐怖のまま息絶えた死体を発見するシーンがある。学校で死んでしまった名も知らぬ人たちにとっては、ワイルドハントに消されることも、何らかの理由により息絶えることも、どちらも結果として変わらなかったかもしれない。しかし、さざんかが「そうだよ、ワイルドハントに消されなくても死んじゃうんだ」(4話)と語るように、消去を伴わない死は、生きるものに、その遺体が死んだという事実を伝える。そして生者は、その人たちがかつて生きていたことを知ることができるのだ。
遺体を発見するさざんかとれんげ ・ 『もめんたりー・リリィ』4話より
一方で、ワイルドハントによる「消去」は、それすらも消し去ってしまう。ワイルドハントは、そのものの一切合切を消し去ることで、ある意味では人間にとっての「死」すらも奪っていると言えよう。
『もめリリ』において、このワイルドハントと戦いを繰り広げているのがれんげたちだ。彼女たちは自分たちや人々を守るためにこのワイルドハントを撃破しているが、その中で、最終的にれんげは自らが命を落とす可能性が高いとわかっていても、それでもワイルドハントに立ち向かっている。無論、れんげの心境としては「皆を守る」というものが大きいのではないかとは思うが、しかしここで結果を見ると、ワイルドハントを打倒してもれんげの「死」というのは覆せず、むしろこの戦いにおいて、れんげは自らの「死」を受け入れなければならなかったと言える。
つまり、れんげたちが本当に打倒すべきは「死」ではなく、ワイルドハントによる「消去」であった、と受け取ることができる。世界から自分が消え去ること、誰かが消え去ってしまうこと、そこに抗い続けているのが『もめリリ』の少女たち、人間たちなのではないか。
こうした形でワイルドハントに対する抵抗をしているのは、何もれんげたちだけではない。人々の死という事実を、墓を作るという形で残そうとしている人もいる。しとろんが「ここに着くまでに、たくさんの人が死んでしまった。でもせめて近くにいて欲しいって、ここにお墓を作ったの。何も埋まってないのがほとんどだけど」(7話)と語っているが、ここでの墓は死者の「死」を認識するため、彼ら彼女らがかつて生きていたことを認識するための、墓なのである。
墓というのは、故人を思い起こさせるものだ。なのでリアルの世界においても、墓があることで、私たちは定期的に故人を思い出し、その「死」を認識できる。そこに遺体があるかどうかは生者にとってはそれほど差を生じることではなく、墓という「死」の証がそこにあることが重要なのだ。
れんげたちがワイルドハントに抗うのが「平和な世界を取り戻すため」であるならば、墓を作るというのは紛れもなく、崩壊した世界から、平時の日常を手繰り寄せようとする、必死な抵抗であると言える。れんげたちのようにアンドヴァリを持たない人々も、そうした形でワイルドハントとの戦いを行っている。
そして「死」を認識する、あるいは認識されるとはどういうことか。それは、死んでもなお、人々の記憶の中に、その人が生きていたということが残るということだ。つまりこの時、人は死んでもなお、人の営みの輪の中に存在している。そしてこれこそが、れんげがゆり亡き後、ゆりの記憶を抱きしめながらもMMYの面々と旅をして、得ることができた認識ではないか、と思う。
れんげが作品に始めて登場した時。彼女が抱えているのは孤独だった。しかしそれが、ゆりたちとの出会いと、更にはゆりとの別れによって、死してなお孤独ではないことが、理解できたのではないか。
寂しい…寂しいよ。
はじめは、はじめは…はじめは、空がおかしくなって。寂しい。それから、人を消してしまう機械が、たくさん、たくさん、やってきた。そうして、この世界からほとんどの人がいなくなって。寂しい。私はずっと1人で。私はずっと1人で、町をさまよっている。ひとりぼっちは、寂しい。寂しいよ。『もめんたりー・リリィ』 1話
だかられんげは満足して、自らの命を燃やして逝ったのだ。自らの生が途絶えて、自らの意識が消えたとしても、あやめ、さざんか、ひなげし、えりかが自分のことを忘れることはない。ここには「一生の友達」としての絆があると、仲間の涙を見つつも、そう信じることができたから。
彼女の最期の言葉には、そうしたものがきっと含まれているのだと思う。
「そっか……ゆりちゃん。ねりねちゃん。死んじゃうのに、楽しいんだね」
あの日、忘れられない友達に会ったれんげは、もう、ひとりぼっちじゃなかった。『もめんたりー・リリィ』 12話
ところで、こうした『もめリリ』の死生観というのは、日本において民俗信仰として信じられているものと相違ないように思える。祖先や故人の霊魂というのは私たちの近くにあって、盆や正月に還ってくる。だから墓に参ればそこに故人が眠っているように感じられる……という霊魂観だ。
一方で、本作のこの死生観には、特定の宗教の参照がハッキリと見られるものではないようにも思える。しとろんらが作った墓は十字架を模していて、これは日本における主流の宗教である仏教や新道ではなく、キリスト教的シンボルを持つ墓と言えるだろう。また「アンドヴァリ」や「ワイルドハント」といった名称は北欧神話を元ネタとするが、これはあくまでオタク気質のあるあやめが命名したものにすぎず、作品のトーンそのものが北欧神話が下敷きになっているというほどに色濃いものではないように思う。
しとろんの共同体が作った墓 ・ 『もめんたりー・リリィ』7話より
最終的に『もめリリ』は、作中の理論において限りなく"神"に近いと思われる、創造主たる「ヤバたん」(さざんかが呼称) の存在を示したが、同時に彼らがすでに存在しているかどうかもわからない、ということもまた示している。つまり、もめリリ世界においてすでに"神"とされるものは不在であって、人々は神亡き世界を生きている、ということになる。
故に、この『もめリリ』の日本の民俗信仰的な霊魂観というのは、ハッキリと形式のあるものではなく、現代日本人が世俗の文化として受け継いでいる風習をベースにした、死者を弔う葬送のあり方なのだと思う。
「人間」 そしてその「生」について
「死」を想うということは、同時にその人のこれまでの「生」を想うものでもある、と先に述べた。では、『もめんたりー・リリィ』の中で描かれる人の「生」の営みというのは、どのようなものであったか。
ひとまず生きていれば、当然今まで積み上げてきた記憶があるわけだ。
ところで、記憶にまつわる話題として、『もめリリ』の中で、ゆりの死と並んで物語の軸となっている謎があった。それは「れんげが何者なのか」ということである。他の人物は皆ちゃんと記憶を持っているのに、れんげだけはそれがない。記憶というものは、その人が生きてきた証であって、それ故に『もめリリ』では、例えばあやめとさざんかの、あるいはひなげしとえりかの思い出話が語られてきた。彼女らがどう生きてきて、何が彼女たち自身や、彼女たちの関係を作り上げているのか、ということを掘り下げてきたのだ。
一方で、記憶がない、どこから来たかもわからないれんげは「本当に人間なのか?」という謎が、終盤まで横たわっていた。
実際のところ、これはミスリードであった。実はれんげだけが人間で、MMYの他の人物は皆オリジナルのコピーで、生物学的な意味においては人間ではない、ということが明かされたのだ。フツーであればもっと深刻そうなこの事実を……いや深刻でないことは全くないのだが、しかし作品のテンションとしてはケロリとそれを受け入れてしまって、コピーとオリジナルが揃って食事を囲んだりしていた。
この温度感はなかなか凄いなぁと見ていて思うわけだが、しかしこの作品の「死」及び「生」の描き方を踏まえるならば、実に納得の行く描写である。記憶こそがその人を形作るものだからだ。コピーというのはオリジナルの記憶までも完全に受け継いでいるので、その時点ではオリジナルと完全に同じ経験をし、同じことを考えるものである。それ故に、コピーもオリジナルも同様にまたその人であると同時に、コピーとオリジナルが違う経験を積んだならば、それはよく似た別の存在、にもなり得る。
コピー/オリジナル全員集合で「かっぽ~!」 ・ 『もめんたりー・リリィ』12話より
振り返って見ると、本編開始前の様々なキャラクターたちの記憶というのも、本来であればコピーという存在が体験してきたものか怪しい。しかし、この事実によって、その過去回想のシーンが嘘になるわけではない、というのが本作でのスタンスであると言える。
また、オリジナルであったれんげもまた、アンドヴァリを使うためにその体が変質してしまっていることが語られ、すでに肉体は人間のものではないという。本作が人間としているのは、血縁や肉体に縛られずに、もっと表層に浮き出てくる「人間らしさ」とでも言うべきものを見据えている。AIが模したゆりの姿をした存在と話すれんげは、そこにゆりの面影を感じる。ここに『もめリリ』の一貫した人間観があると言えるだろう。
れんげ「なんだか、ゆりちゃんみたいに優しいです」
AI(ゆり)「わたしは、質問に答えているだけだよ」
れんげ「でも、人の気持ちをわかってくれてるんだ、って気がします」
AI(ゆり)「手に入れた情報を反映して、命令されたことをしているにすぎないんだけどね」『もめんたりー・リリィ』 11話
ところで、『もめリリ』を見た人であれば必ず記憶に残ると思われるが、この作品の主要人物には皆特徴的な口癖があり、その人と強く結びついている口調がある。れんげの「かっぽ~!」や、ゆりの「どんどん」がそれである。
ともすればこれは記号的で、今まで書いてきたように人間の「生」そして「死」を描いてきた『もめリリ』にとって、記号的すぎてしまい(慣用句としての)血の通った人間を描く表現にならないのではないか、とも思える。が、これによってフィクションとしてのわかりやすさ/キャッチーさを提供すると同時に、物語上の仕掛けとして機能すること、人間的な深みを出すことにもつながっていたと思う。まずは、各人物の口癖を簡単に振り返ってみよう。
人物 | 口癖 | 役割 | 性格 |
---|---|---|---|
れんげ | 割烹(かっぽ~) | 食事づくり | 引っ込み思案 |
ゆり | どんどん | リーダー、先導者 | 前向き、カリスマ性 |
あやめ | ギルティ | まとめ役 | 委員長気質、オタク |
さざんか | ヤバ(ギャルっぽい言葉) 慣用句(例:周章狼狽) |
ムードメーカー | 陽気、気配り屋 |
ひなげし | バフ(ゲーマーっぽい言葉) ひな的 |
メカニック | 冷静沈着、ゲーマー |
えりか | お姉ちゃんの知恵袋 いいわよいいわよ |
保護役 | お姉ちゃん |
こうして見てみると、この口癖というのは役割や性格と結びつくものと言える。
れんげは言わすもがな、食事作り担当で、この食事は精神的ケアにつながっている。ゆりはリーダー格で”どんどん”皆を引っ張るポジションで、各々の出会いもゆりが先導していたもの、と3話で語られている。あやめは副リーダー、ゆり亡き後はリーダー格で、判決を下すように物事を決定している。さざんかは、陽気でギャルっぽい雰囲気が言葉遣いにあらわれている反面、気配りをする細やかさがあって、読書家であることが妙な語彙の豊富さに表れている。ひなげしは静かなゲーマーだが、機械いじりが得意でギーグ的な側面が強くでており、言葉遣いもそうした用語を多様する。えりかはみんなのお姉ちゃんという自認をもって、包容力のあるような口癖だ。
社会の秩序が崩壊した世界においては、こうした口癖を強調することは、当人の役割を再確認するもののようにも感じられる。実際、時々気弱で涙もろいことが描かれるあやめ、明るい自分に変わろうと意識的だったさざんか、また自らの死の恐怖という極限状態で乱暴な言葉づかいになるえりかなどの描写が、作中において存在している。なので、平時の口癖を軸にしたような振る舞いというのは、それぞれにとって「この共同体においてこうあるべき自分」というのを表現しているようにも思える。
これは何も「本当の自分 / 嘘の自分」という話ではなく、社会においては多かれ少なかれ、誰もが自然と行っている振る舞いの変化のようなものだろう。私たちもまた、家庭、友人関係、学校、職場、あるいはインターネットでおなじ人間が異なる振る舞いをしていることだろう。『もめリリ』においても、SNSでは丁寧な口調だったしとろんが、実際会ってみると強気なツンデレ少女だった……というようなギャップが描写されている。これは人の持つ二面性の表現にほかならない。
普段は凛々しいが、オタク語りの時は饒舌になるあやめ・『もめんたりー・リリィ』13話
さて、MMYというのはふつうの家族のような共同体を少し離れた、奇妙な集まりの共同体だ。7話においてれんげ以外の家族の生存が明らかになったとき、皆がそれぞれの家族の一員としての役割に引き戻され、れんげが1人孤独感を味わう場面があるのは、象徴的なシーンだと言える。また最終的にアニメで主役として動いてきた彼女たちがオリジナルのコピーということが判明した後、オリジナルの家族を含む共同体から(一時的という話ではあるが)離れていくのも、独自の共同体を描いてきた本作らしさだな、と思う。
ところで、日本においても墓というのは少なからず家と結びついているものだ。家が管理している墓があって、自分も死んだらそこに入っていって、先祖から連なる系譜の一部になる。もちろんこうした習わしは、昭和、平成、令和ときて、現代においては以前ほどは重視されなくなっているだろう。かつてのような"家"に対しての強い意識というのは、自分も含めて多くの人がどんどん失っているのではないかとも思う。
そこで『もめリリ』に意識を戻してみるが、今までの人間社会が完全に崩壊してしまった世界の中では、もちろん従来の”家”の形とて壊れてしまっているのが大半であろう。
本作の横峯監督は、モブキャラクターを含めて男性が登場しない理由について<閉鎖的な雰囲気を強調するためにも、「子どもが生まれる要素」になりえる男性はあえて出さない方針で演出を取り仕切りました。>とも語っている。2崩壊した世界においては「死」がとなりあわせにあるが、それに対抗できる「生命の誕生」というのは生まれない世界だ。もちろん設定上生き残っている男性もいるとは思うが、作品のトーンとしては、やはりこの世界には先がないのである。
何もなくなった世界に放り出された時、先祖や、あるいは生命のサイクルからも外れて、人は自らが孤独であるという寂しさに陥ってしまう。これは、先の段でも触れた通り、登場当初のれんげが抱えていた孤独感に繋がるものでもある。
そこで『もめリリ』ではそうした旧来の"家"とは違う形で、人々がサイクルの中になおも在ることを意識させる。それが、直接「形見」として語られることもあった(14話) アンドヴァリの継承、あるいは記憶そのものの継承だ。こうした継承を描く物語の、中心にいたのがれんげである。彼女はかつて、ワイルドハントとの戦いで命を落としたねりねの記憶と武器(アンドヴァリ)を受け継ぐ。更に、その後再び命を落としたゆりの遺志と武器をも受け継いでいく。れんげの辿ってきた道筋は、継承の道筋でもあるのだ。
そして、その人のキャラクターに強く結びつく「口癖」もまた継承されていく。ゆり亡きあと、れんげが大技を繰り出す時に「どんどん」を使ったり、また仲間うちでゆりの「どんどん」が息づいていることが描かれている。
れんげ「ティルフィング! どんどんどーん!」・『もめんたりー・リリィ』8話
さて、ねりねとゆりの死を受け止め、彼女たちの残したものを継承してきたれんげだが、れんげ自身もまた、最後に命を落とすことになってしまった。しかし今、れんげが今までしてきたように、今度はれんげの残してきたものを、継承する人たちがいる。 本作のキーワードと言っても差し支えない「割烹 / かっぽ~ / カッポー」であるが、この言葉の変遷をたどると面白い。最初、れんげの「割烹」という少々古めかしい言葉は、独特のワードチョイスとして仲間から受け取られていた(1話) しかし、後半になるとこの「割烹」は、まるで掛け声のようにMMY内で通じ合う言葉になっている。更に14話では、この「割烹」という言葉をれんげが使い始めたのは、ねりねの影響ということが語られ、れんげが「割烹」を口癖にすること自体が継承の結果であることがわかるのだ。このように「割烹」をめぐる変遷こそ、この作品が描こうとしてきた「継承」ということを、象徴的に示す変化だと言えるだろう。
またこの「割烹」が妹のすずらんには、には姉れんげの口癖と認識されていないのも面白い。「割烹」を使うようになったのは、すずらんとはぐれてねりねと行動を共にしていたことがきっかけなので、すずらんは「割烹」という言葉とれんげが結びついていないのである。
誰と出会い、誰の記憶によって、その人の人となりが形作られる。コピーとオリジナルがある地点までの記憶を共有しつつ、それぞれが違う存在の個として振る舞うのと同じ文脈での人間の描写だろう。
『もめリリ』は、既存の家や肉体的な人間の定義を一度壊した上で、何がその人間を人間たらしめるのか、また人の世のサイクルの一員となるのか、ということを描いてきた。
対等な友達関係をこのアニメ世界においてもっとも強固な結びつきとして描くのは、ある意味では"先祖"や"家"というサイクルが薄れていく現代の中で、何を受け継ぎ何を遺していくのか、ということを提案しているようにも思える。『もめリリ』の舞台となる東京は、特にこうした傾向が加速している場所であろうが、そんな中でも私たちにも残せる精神的な繋がりというものを、私たちはこれから模索していくべきなのかもしれない。
おわりに: アニメーションとしての『もめんたりー・リリィ』
ここまで、『もめリリ』が作品内で描いてきたことを読解しようとしてきた。本作がこうした読みの余地がある物語を展開してきたことは作品の美点のひとつであると思うが、しかし忘れてはならないのが、このテーマを魅力的なアニメーション作品として仕立てあげたGoHands、並びにスタッフ陣の働きであることは言及しなくてはならないだろう。
他のGoHands作品同様、この作品も「まるで生物のように動く髪の毛での情報量の提供」や「カメラワークを大きく動かす迫力のあるアクションシーン」といった強烈な個性のアニメとしての魅力に溢れている。そして、こうした手法によって表現されたキャラクターとしての人間は、現実の人間とは似ても似つかない存在である。
しかし、そうしたフィクションとしての、絵の集合体である存在の彼女たちを「生きている人間」として私たちに認識させること、そして私たちが、そんな彼女たちが生命を燃やそうとする姿に涙を流すこと。これはまさに、本作が作中で描いてきた、コピーもまたひとりの人間なのだ、ということと重なる。故に『もめリリ』で描かれている人間讃歌というのは、同時にアニメーションの讃歌なのである。
「今がリアルなんだ これがリアルなんだ」・『もめんたりー・リリィ』ED
ゆりたちが人間離れしたアクションをすることにも作中で「コピー故に身体能力に優れる」という設定を作ってきたことも、何気に巧みであった。私たちがアニメーションを鑑賞する上で、なんとなく受け入れているアニメの嘘を「普通そうではない」と意識させ、設定を強固に作り上げることで、アニメの世界で彼女たちが「生きている」のだ、ということを感じることができた。故に本作は、リアリティとフィクションの歯車が、かちりと噛み合うように練り上げられたアニメ作品だったなと思う。
「割烹」を繰り返しつつも実際に食事をするシーンがあまり描かれなかったのも、その「割烹」という、いわば楽しみのための営みそのものに人間性を見出すと共に、食料の接種という肉体的、生物的な要素が人間を人間たらしめるのではない、というところから来ているものだったのかもしれない。
GoHandsが美少女アニメをやると聞いた時には、一体どのようなものが出てくるのかドキドキしたものだが、口癖などの強烈なキャラクター付けで美少女アニメらしさの表層を捉えつつも、更に発展してGoHandsらしいアニメが見られたな、と感じている。次回作以降も是非「らしい」アニメが見られることを、心から期待している。
本記事を書くにあたって、私たち日本人の死生観みたいなものをもうちょっと知っておく必要があると思い「死者はどこへいくのか: 死をめぐる人類五○○○年の歴史 (河出ブックス 102)」を軽く一読してみた。また、柳田國男の「先祖の話」も同様に一読を試みたのだが、無学により昭和時代の古めかしい言葉遣いが馴染めなくて、恥ずかしながら解説程度しかまともに読めなかった。それでも『もめんたりー・リリィ』を再考するにあたって、刺激を受けたと感じる。
もう少し知識があれば本作に横たわる死生観について、より深く分析できることもありそうに思いつつも、今回はあくまでアニメの読解記事ということで、アニメの内容が中心の話題にとどめておきたい。
『もめんたりー・リリィ』の登場人物は、名字が桜に関係する名称で、名前に植物名が採用されている。この花のモチーフは墓へと手向けられる花を連想させるのと同時に、すぐに散りゆく儚さを持ちつつも、地に根を張る生命力を感じさせるものでもある。関連して最後に「死者はどこへいくのか~」においても紹介されていた、この言葉を紹介して締めくくりとしたい。
花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。
『意訳歎異抄』(金子大栄)
『もめんたりー・リリィ』12話
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本記事の画像は全て、TVアニメ『もめんたりー・リリィ』 ©GoHands/松竹・もめんたりー・リリィ製作委員会 より引用。