海中の子どもたち ――『バミューダトライアングル~カラフル・パストラーレ~』を『凪のあすから』の変奏と読む
でかい当たりを掴んでしまった
世界を変えてしまうかもしれない
毎日があっという間に終わった
油断すると大人になっちまう真昼の子供たち / GRAPEVINE
はじめに ――海の中でお茶を飲む
2026年夏放送のテレビアニメ『さよならララ』を見たのだが、人魚のララが海の中で過ごす様子に惹かれ、私はにわかに海中アニメが見たくなった。ディズニーの往年の作品『リトル・マーメイド』(1989)などもいいだろうか、とあれこれ検討した結果、まず白羽の矢が立ったのは人魚ではない海中で暮らす人々がでてくる設定のアニメ、PA.WORKSの名作と名高い『凪のあすから』(2013-2014)であった。
そうして『凪のあすから』(以後、凪あす)を見始めたのだが、まず冒頭の描写で驚いた。海中で汁物を作っているのだ!
現実の海中でわたしたちが汁物を作ろうとしたら、どう考えても作るとか作らないとかの前に、鍋の中に入っているのが汁なのか海なのか区別がつかなくなってしまうだろう。しかし『凪あす』の冒頭では、主人公の矢島光が海中の村・汐鹿生(しおししお)の郷土料理とされる磯汁を、御霊火(みたまび)という海中でも消えない火を使って調理するシーンで始まる。それはあまりにも陸の上めいている生活様式であり、この冒頭部分見ても、最初はそうと知らなければ海の中だとはよくわからないかもしれない。しかし生活空間には魚が漂っていて、テレビでは塩分濃度のニュースが流れている。そうして次第に「どうやらここは海の中のようだ」ということがわかってくる……というシーンになっている。
このように『凪あす』は、海の中で暮らしているが、しかし陸上のわたしたちと同じように暮らしている汐鹿生の生活を見せる。おそらくこの奇妙な世界観を、視聴者に対する冒頭のフックとして用意しているのだろう。
ところで、私が驚いたのは、この海中描写が奇妙だったことに対して、直接感じたものではない。似たような海中描写を冒頭に挿入してきたアニメ作品を知っているからだ。それが、なのはシリーズで知られるSeven Arcsの『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』(2019)である。そもそも、実を言えば『さよならララ』をきっかけに海中アニメが見たくなったのも、私がこのアニメの熱狂的ファンであるからに他ならない。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』(以後、カラパレ)の第1話冒頭では、ポットから紅茶を注いで、一人の女性がカップのその香りを嗅ぐシーンから始まる。そこからカメラは下へとティルトし、紅茶を楽しむ女性の下半身の尾びれを映し、このアニメの舞台が海の中にある人魚たちの住む村・パーレルである、ということを視聴者に伝える。海中で飲み物を飲む――という奇妙なシーンのインパクトによって、私たちにこの不思議な世界観を一発で伝えているのだ。
このシーン構成は、まさしく『凪あす』の磯汁の冒頭のワンシーンと同じものではないか。
『凪のあすから』 第1話「海と大地のまんなかに」(左)
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第1話「パーレルへようこそ」(右)
方や人間、方や人魚という設定に差異こそあれど、同様に少し不思議な海中での生活の様子を描くこのニ作。それ以外には一見特に繋がりのない両作だが、主要スタッフに目を向けて見ると、そこにも意外な繋がりを見出すことができる。
まず『凪あす』は篠原俊哉 監督、岡田麿里シリーズ構成という布陣。対しての『カラパレ』は西村純二監督、横手美智子シリーズ構成、という布陣である。この『カラパレ』の西村純二監督は一時期PA.WORKSにて作品を手掛けることが多く、PA.WORKSの記念すべき第1作目である『true tears』は他ならぬ西村純二監督・岡田麿里シリーズ構成、というコンビで送り出されている。他にも西村監督はPA.WORKSにて『グラスリップ』(2014)という作品も手掛ける。1
ここで『カラパレ』に参加した脚本陣を見てみると、驚くことに「横手美智子・和場明子・青木由香・西村ジュンジ(西村監督の変名)※敬称略」のうち青木由香氏の面々は『凪あす』にも脚本家として参加しているのである(横手美智子:#6,10,16,21 和場明子:#8,9,20 西村ジュンジ:#18)監督・シリーズ構成という最も核となるメンバーが共通しているわけではなく、『凪あす』監督の篠原俊哉氏、脚本の岡田麿里氏は『カラパレ』とは特に関わっていないということもあって、この両作品が今まで並べて語られることはほぼなかったように思える(というか書くにあたってアイデアが転がっていないかネットで結構探したのだが全然見つからなかった)
が、こうして見ると『カラパレ』の脚本陣は『凪あす』を経て再結集していると捉えられるのでは、とも思えてくる。
アニメ制作の内部のことについては、いち視聴者である私が何を考えても憶測にしかならないのでこれ以上語ってもナンセンスであるとは思う。なので、両者の繋がりについては「全くの無関係ではなさそうである」ぐらいの言及に留めたい。
しかし『凪あす』と『カラパレ』の2作にどこか似通う要素が見いだせるというのも事実である。こうした観点から、この記事では『カラパレ』を『凪あす』の変奏として読むことが可能ではないか、という推測のもと、それぞれの比較・読解を試みる。
今回は「メインキャラクターの人間関係」と「物語を構成する要素」という2つのことを掘り下げながら、作品について考えていこうと思う。
1. 人間関係と時間の変化
まず着目したのは、それぞれメインキャラクターが5人で構成されている点である。しかも、このうち4人は幼馴染であり、そこに外からの新たなメンバーが加わる、という配置が共通している。『凪あす』であれば「(光、まなか、ちさき、要)+紡」であり、『カラパレ』ならば「(ソナタ、キャロ、セレナ、フィナ)+カノン」である。
『カラパレ』のセレナ流に言えばどちらも「5という数字は素晴らしい」ということになるかもしれないが、しかしそれぞれ性質が異なるグループでもある。この5人がどういう関係なのか、というところを整理してゆく。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第5話「びっくりワクワク」
1-1 5という人数は素晴らしい?
まずは『凪あす』だが、この作品は少年少女の恋愛模様を描いており、かつ登場人物の片思いの恋慕が非常に多く、なかなか複雑な人間関係となっている。この作品の恋愛ペアは基本的に男女間で成立しているので、最初の幼馴染の「男子:光、要」「女子:まなか、ちさき」の4人の関係であれば、最終的に安定する余地があった。ところが、そこに陸に住まう紡が登場したことで、緩やかに保っていたバランスが崩れそうになっている。
そしてこの4+1=5人の同級生の関係は、第2クール突入のタイミングで決定的に崩壊する。汐鹿生メンバーのちさき以外は冬眠について成長をストップさせるが、眠らなかったちさきと、もともと陸の人であった紡だけが5年の間成長し、それぞれの立場が変わってしまっているのだ。
この5年間は眠っていた光たちにとっては一瞬のことだが、ちさきたちにとっては5年間の時間が経っている。中学生にとって――14歳が19歳になるほどの時間である――5年間というのは、重い。この"時間"というポイントについては、後ほど改めて深堀りしたいと思う。
しばしば『凪あす』は第2クールから更に面白くなると評されている印象で、実際私もそう感じた。それはここで5人の中で時間の断絶という立場の差異を生み、更に眠っていた光、要、まなかを逐次目覚めさせることで、その度に5年後の人間関係に波を立て、登場人物と視聴者の心をかき乱す……という、荒れる海のような話運びにもあるのではないか、と思う。
ともかく『凪あす』における最初の5人というのは、物語の流れで解体されていくグループであった。この5人は第2クールにおいては「身体的成長がない:光、要、まなか」と「身体的成長がある:ちさき、紡」という2つの立場のグループに分けることができるが、一方で第1クールにおいて年下だった美海とさきが光たちと同い年の14歳になっている。美海とさきは恋愛関係をめぐる物語にもこのあたりから本格的に参戦してくるため、第2クールの主要5人は「光、要、まなか、美海、さき」に切り替わっているとも言える。
そして奇数である5人で完全な二人ペアを作ることはやはりできないので、第2クールにおいても「ひかり、まなか、美海」が三角関係になっているなど、このグループ内でも緊張をもたらす関係が存在している。
さて、先ほどは幼馴染の関係がずっと同じではいられないのが『凪あす』と書いたのだが、その中のちさきという人は一倍変化を恐れていて、この幼馴染たちの関係が変わらないことを祈っている。これはちさきが汐鹿生の幼馴染の中で前述の通り一人だけ身体的に成長してしまう、という展開の前フリでもあるのだろう。
ちさきがこの不変に対する願いを爆発させたのが、6話「巴日のむこう」というエピソードである。巴日(ともえび)というのは海中で太陽が3つに見えるという、作中の珍しい自然現象である。かつて、汐鹿生の幼馴染メンバーはこの美しい現象と出会ったのだが、まなかは一人遅れてしまい、結果的に"みんな"で一緒に巴日を見ることができなかった。そこで激怒したのがちさきであり、幼かったまなかとちさきは泣きながら大喧嘩をした……という思い出が、まなかとちさき、それぞれから語られている。
この時ちょうど、ちさきとまなかは光との関係についてすれ違い、仲違いをしている。そんな二人の元に、巴日が再び姿を表すのだ。その美しい光景を眺めながら、ちさきとまなかは自分の内心を吐露しつつ、言葉を交わす。そこでちさきは、かつてまなかとは一緒に見られなかった巴日を見ながら「ずっと子供時代が続いていけばいいのに」と、不変への願いを口にする。
ちさき「おじょしさまが、完成しなければいいのにな」
まなか「どうして?」
ちさき「そしたら、ずっと夏でしょ? ずっとみんなと、おじょしさま作っていられる。ずっと一緒にいて、ずっと遊んだり、学校いったり、話したりしてられる」
まなか「でも…」
ちさき「わたしね、変わらなければいいと思ってたし、変わりたくないよ」『凪のあすから』 第6話「巴日のむこう」
ちさき「光と要もここにいたらよかったのにな。同じものを見て、同じように笑って、同じように……ずっと友達で」
『凪のあすから』 第6話「巴日のむこう」
さて、ひりつくような空気を伴う『凪あす』に比べると、『カラパレ』には牧歌的な雰囲気がある。『カラパレ』は幼馴染4人に加え、とある事情から都会から田舎へと移り住んできた少女・カノンの5人で、発見した映画館の再興を目指しながら日々を楽しく過ごす……という、日常を謳歌するアニメである。
この5人は緊張を生む関係ではなく、安定している。「5という数字は素晴らしい」を体現しており、『カラパレ』では「5人いっしょ」であることの素晴らしさが繰り返し描かれる。それは共に映画を見たり、共にひじきサンド(パーレルの郷土料理)を食べる喜びで表現される。2
また、ここでは人魚の生態にも触れておくべきかもしれない。『カラパレ』世界のパーレル村の人魚に男性は存在しておらず、人魚たちは雌雄の交配で増えていくのではなく、貝殻から生まれるものらしい。同じ貝殻から生まれた人魚は「シェルシス(shell+sisterと思われる)」と呼ばれている。
ソナタ「流石キャロ! カプリのシェルシス!」 カノン「シェルシス?」 キャロ「そ! この子私と同じ貝殻から生まれたの! 年は離れてるけどね~。フィナとセレナもそう! だからあの2人、特別仲良しなんだ」
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第2話「キネオーブがこんなに」
性愛が物語の軸となっている『凪あす』では誰と誰がペアとなるか、という話題がずっと繰り広げられるわけだが、『カラパレ』にはその生殖のために必要なペア要素が存在しない。せいぜい「シェルシスであるフィナとセレナが特別仲良し」というぐらいだろうか。
ところで、幼さの残るちさきの「みんないっしょ」の願いは『カラパレ』で「5人いっしょ」が素晴らしいものとして繰り返されることと、どこか重なる部分もある。しかし『カラパレ』の「いっしょ」というのは新たに加わったカノンも含めての「5人いっしょ」であり、そこには少しずつ関係の変化を受け入れているとも言えるだろう。
都会生まれのカノンが次第にパーレルに馴染んで"パーレルのいつもの5人"になるまでの変化が『カラパレ』にはある。3話のエピソードを例に挙げよう。自分たちで運営していく映画館をどのように心地のよい場所にするか、という話し合いが繰り広げられるのだが、最終的に映画館で新メンバーであるカノンの歓迎会をやる、というシーンで締めになる。特に前半はカノンがパーレルの幼馴染グループの中で少しずつ馴染み、変化していく様子が描かれている。また同時に、この3話ではカノンが都会のアイドルの話をして、これが辺境の村・パーレルで暮らすソナタたちに変化をもたらしてもいく。パーレルにもたらされる変化は少しずつではあるかもしれないが、しかし確かに存在している。
ソナタ「ゆっくりできて、ずっといたくなるような……」
カノン「ずっと…」
キャロ「ずーっと5人、いっしょにいたいってこと!」
フィナ「うん!」
セレナ「5はとても素敵」
カノン「5人、いっしょ……!」『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第3話「5人いっしょ」
また、雰囲気の差異こそあれ、『凪あす』でも紡は幼馴染4人のグループに加わり友情を育んでいる。そんな中で第1クールのちさきが紡を毛嫌いしていたのは、彼女の不変の願いを乱す人が紡だったから、というのもあるのだろうか。
ちさきが望んでいた不動不変の世界は、海が波を立てるのをやめ、静止した海になっていくことと重なる。『凪あす』のクライマックスでは、凍りついた凪の海は融解し、海は再び変化に富んだ海に戻っていく。幼かったちさきの願いは叶わず、彼女自身も自らの変化を受け入れてゆく。
まなか「凪いだ海は、おじょしさまの心。もう激しく荒れることはない。愛を失った、平静の心」
『凪のあすから』 第26話「海の色。大地の色。風の色。心の色。君の色。~Earth color of a calm~」
『凪のあすから』 第6話「巴日のむこう」
1-2 シュークリーム、コーヒーゼリー、ひじきサンド
さて、そんな『凪あす』のちさきだが、第2クールにおいて自分だけが汐鹿生の幼馴染の中で一人5年の時を重ねてしまった結果、否応なしに生まれてしまった変化に戸惑いながらも向き合うこととなる。『凪あす』は"最初の5人"からちさきと紡が抜けることになる、などとざっくり先ほど書いてはいるのの、登場人物の心境としては当然そんな単純なものではない。
子どもと大人の狭間のような19歳のちさきは、自身の立ち位置について迷い悩む。そうした少年少女の心理を繊細に掬い上げることに注力していたのが『凪あす』という作品であった。
第21話「水底よりの使い」では、お菓子というアイテムを使ってそんなちさきの揺らぎを表現する。幼馴染組の中で冬眠が長かったまなかが最後に目覚めたことで、同級生の狭山は「再結成だな、鹿生4人衆」と喜び、5個入りのシュークリームをちさきらに渡す。4人にとっては1個余ったシュークリーム。かつてグループとして+1であった紡は来られないと言う。そんな中、ちさきは紡の祖父の見舞いに行くと言い、受け取った5個のシュークリームを「光、要、まなか、美海、さゆ」の5人に「佐山くんがみんなで食べてって」と伝えながら譲る。
6話を踏まえると、あれほど"みんな"に拘りが強かったちさきが、「鹿生4人衆」に向けてみんなで、と送られたシュークリームを譲りながら、その"みんな"の中に自分を置いていないことには含みを感じる。その後、病院でシュークリームの代わりに、コーヒーゼリーを食べる紡とちさきのシーンに移る。
ちさき「おいしい。私、シュークリームより好きかも」
紡「なんでシュークリーム?」
ちさき「……なんとなく!」『凪のあすから』 第21話「水底よりの使い」
ここでのちさきは明らかにシュークリームを渡した14歳たちとの距離を感じはじめている、と読み取ることができる。紡と食べるコーヒーゼリーの感想にわざわざシュークリームを引き合いに出したのは、そうした彼女の心境を反映したセリフだろう。
一方の『カラパレ』では、みんなでマドレーヌを食べる(2話)、みんなでひじきサンドを食べる(3話)、というシーンが、5人の親愛の証のように登場する。『カラパレ』は子どもたちの物語なので、素直にみんなで"シュークリーム"を食べるシーンが繰り返されるのだろう。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第2話「キネオーブがこんなに」
5話でもキャロがオープンする自分たちの映画館で何を上映すべきか迷って困ってしまった時、フィナはひじきサンドを例に挙げて「キャロの好きなものを選べばきっとみんなも楽しい」と説得する。ここで、みんなでひじきサンドを食べるということは、フィナたちにとって「おんなじことをすると楽しい」ことの象徴なのである。
ちなみに、終盤でカノンが結晶化によって閉じこもってしまった時は「みんなで朝食をいっしょに食べる日」に現れなかったことで、カノンの異変に気づく、というシチュエーションになっている。一緒に食事ができないことが、不穏な展開の予兆になっているのである。
フィナ「あのね、キャロちゃん! 映画はひじきサンドなんだよ!」
キャロ「ひじき、サンド……?」
セレナ「フィナちゃんが難解だ!」
カノン「映画は美味しくないような……」
ソナタ「フィナ、どういうことなの?」
フィナ「あのね、今日ソナタちゃんの放送を聞いて思ったの! 映画もひじきサンドも、おんなじものをみんなで見たり、食べたり、それが楽しいんだって!」『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第5話「びっくりワクワク」
ところで、偶然かもしれないが、このちさきが巴日を「みんないっしょに」見ることにこだわった第6話「巴日のむこう」と、シュークリームとコーヒーゼリーによってちさき(と紡)の立場が幼馴染グループから離れていることを表現した第21話「水底よりの使い」は、どちらも横手美智子氏の脚本担当回である(ちなみに、同時に挙げた『カラパレ』の第2話「キネオーブがこんなに」は横手美智子氏、第3話「5人いっしょ」と第5話「びっくりワクワク」は和場明子氏の脚本)
それを踏まえると、意図的な類似かどうかは不明であるが、ともかく『凪あす』のこれらエピソードと『カラパレ』に共通するシチュエーションが登場することには納得感もある。
大人にならざるを得なかったちさき(と紡)のように『凪あす』のグループは否応なしにやってくる変化に戸惑っている。
一方で『カラパレ』はカノンが加わり4人から5人が"いつものメンバー"として安定感を生み出していく流れがあった。
これらの差異については、両作品における時間という要素が大きく関わっていると考える。ここについて、次は比較してみたい。
1-3 人間と人魚の時間
前章にて『凪あす』では、ちさきと他のメンバーに横たわる5年という時間の差がちさき自身を変化させてしまい、不変という幼なかった頃の願いが叶わなかった、ということについて書いた。
繰り返すが、人間にとって5年というのは重い。いや、もう大人と呼ばれてしまう私ぐらいの年齢であれば、「えっ、『白い砂のアクアトープ』『SCARLET NEXUS』『Sonny Boy』のクールって、もう5年前なんだっけ!?」などとちょっと驚くぐらいで、正直そこまででもないのだが。しかしながら14歳の中学生にとっては、19歳になる時間なのである。若ければ若いほど時間は重く、そして年齢の差によって感じる違いも大きい。例えば『スロウスタート』で浪人してしまった花名ちゃんがほんの1年の差を友だちに打ち明けられずに苦しみ続けるのは、彼女が大学生ではなくて高校生だからなのである。……えっ、『スロウスタート』のアニメって、もう9年前!?!?3
ともかく、大人にとっては5年なんて気がついたらいつのまにか過ぎ去っている時間でも、子どもにとって、ちさきにとっては当然違うものなのである。24話では、紡への恋心を自覚しつつも幼馴染たちへの不義理に悩むちさきが、いよいよ要の前で心境を吐露する。
ちさき「たった5年……。紡と過ごした時間は、たった5年。光たちとは、生まれたころからずっと一緒にいたのに……。なのに……どうしてたった5年で……!」
要「紡? 昔から変わらないから。ちさきは好きな相手のことになると、普通じゃなくなる。よかったら、ちさきの気持ちを話して。それで少しでも楽になるなら。僕の気持ちは、いいんだ」
ちさき「要……」
要「昔からどうしたって、蚊帳の外だったんだから。ちさきが光とうまくいかなくても、次は僕じゃなく紡だってわかってたから」
ちさき「違うの! 好きじゃない! 紡のことは、好きになっちゃいけない……! そう、2人以外の人を好きになったりしたら、眠り続けてるみんなを、時間を止めたままのみんなを裏切ることになるって思って、私は、私は……光が好きなんだって、ずっと、忘れないように、ずっと思ってて……」『凪のあすから』 第24話「デトリタス」
何度見ても『凪あす』の第2クールで、(よりにもよって!)ちさきの身体だけを成長させて、光たちとは別の年齢の身体にしてしまう展開は残酷すぎて震えるが、ともかくこうしてちさきは、全てを飲み込んで変化させてしまう現実の時間の流れを、否応なしに受け入れざるを得なくなってしまう。
またここは要の方も"自分は身を引いているようなポーズ"をずっと続けてしまっているシーンである。自らの環境を変化させることを諦め、5年前から物わかりのいいような振る舞いをしてしまうのは要の特徴でもあり悲しさでもあるな、と痛感する(そんな一見大人びた彼も、5年後は成長していない姿によって、容赦なく14歳の幼い少年でしかないことを突きつけられる残酷さ!)
形は違えど――故に要の恋慕は叶わなかったと言えるのかもしれないが――要とちさきというのは似たもの同士だったのだろう、と思う。ちさきにとってその本心を察して問答無用で抱きしめてくる紡に出会えたことは幸いであったのかもしれないし、また要にしても直情乙女のさきが精一杯の愛に満ちた喝を入れてくれたのは、幸いなめぐり合わせだったのではないか。ちさきも要も、5年という時間の残酷さに直面したことで、いよいよ自らも変化していく、変化していることを受け入れてゆく。それは子どもたちが、大人と呼ばれる存在へと向かっていく移り変わりでもある。
では人魚の少女たちの物語である『カラパレ』における時間はどうだろう。実のところ『カラパレ』の作中でどれぐらい時間が経ったのかは不明なのである。作中には暦のような話題もなく、あってもせいぜい「新月休み」なるものがあって、自然の動きと共に休みが発生するらしい、ということが伺えるぐらいである(5話) この世界の人魚というのは、人間に比べるとかなり長寿らしい(8話) ので、もしかするとソナタたちが映画館「シネマカラフル」を再開させてから5年ぐらいの年月が経っているのかもしれないし、あるいはもう50年ぐらい経っているのかもしれない。
そんな人間と人魚の寿命差がはっきりと示されたのは、海中を舞台にした『カラパレ』の異色の陸上回である8話「それはね、靴っていうの」である。ずっと軽やかに海中を漂っていたソナタたちは、アイテムによって足を得て陸の砂浜を踏みしめる時の違和感に戸惑う。重力の重さを感じさせるシーンは、このアニメでも屈指の表現力があるエピソードだ。私もこの頃には『カラパレ』世界の海中の暮らしにすっかり慣れていたので、陸というのはこんなに不自由なところか! と、陸の人としては謎の驚き方をしてしまった。
このエピソードでは「陸上がり」をしたソナタたちは、人魚の先輩であるグラディスという女性にいろいろなことを教えて貰う。彼女は人魚でありながらずっと陸で生活をし続けている。そんな彼女には、かつて人間の友人がいたようである。グラディスの部屋には、友人と撮ったのであろう写真が飾られている。かつて同じような背丈であった二人だが、人間の方はどんどんと背が伸びてゆく。そして今グラディスは、海中の人魚の群れから離れ、陸上の島で一人だけで暮らしている。グラディスは、おそらく既に種族の寿命差によって、過去の友人とは死別している……ということが示唆されている。グラディスはそれでも、濃霧の日には焚き火を焚いて、島に近づく船への目印を作る、という役目を続けている。かつての友人のような、船が島に座礁して漂着して、帰れなくなってしまう人間を減らすために。
島に上がった夜、ソナタとカノンは陸の新鮮さについて話をする。おそらくソナタは、グラディスの境遇にもうっすらと気がついている。
ソナタ「グラディスさんの友達ってどんな人なのかな? 靴を履いてる?」
カノン「大きさが違いました。紫の靴はグラディスさんにぴったりだったけど、他の靴は少しずつ大きくて」
ソナタ「あたしたちはゆっくり大人になるけど、この星にはそうじゃない人たちもいるんだよね」
カノン「グラディスさんは、靴の人とまだお付き合いが続いてるんでしょうか?」
ソナタ「う~ん……。もしかして、グラディスさんがここに暮らしているのは、友達のことがあるから、なのかな……」『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第8話「それはね、靴っていうの」
この「あたしたちはゆっくり大人になる」という言葉こそが『カラパレ』の物語を象徴するものではないか、と私は思う。ソナタたち人魚の時間も止まっているわけではない。『カラパレ』の後半では、都会からお転婆なアイドル・チェルが来訪するエピソード(7話)や、映画の撮影スタッフが村にやってくるエピソード(9話)など、外からの刺激によってソナタたちの世界がゆっくりと広がっていくさまを表現している。8話の陸に上がっていろいろな知らないことを体験する、というのもそうしたエピソードの一環だ。しかし、その時間の流れはゆっくりしたものなのである。
このように、大きな変化によって戸惑う『凪あす』と、小さな変化を重ねていく『カラパレ』には、子どもたちの世界で流れている時間の速度という、大きな相違点がある。
この2作品が同じように5人の子どもたちをメインキャラクターに据えながらも、それぞれの話運びが大きく異なるのは、人間と人魚という種族の差が大きいと思われる。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第8話「それはね、靴っていうの」
2. 物語を構成する三要素
続いて、『凪あす』と『カラパレ』の物語の展開に着目してみたい。両者の共通する構造として、以下の流れを見出すことができる。
- 始まり「海中で暮らす子どもたちの元に、見知らぬ新しいもの、がやってくる(陸の少年/映画館とキネオーブ)」
↓ - 伝説「物語に関わってくる伝説(おじょしさま/真珠)がある」
↓ - 終盤の危機 「主要キャラクターの1人(美海/カノン)が物体(繭/結晶)に閉じ込められ、それを救い出す」
「1,.始まり」はそれぞれの物語の起点となる出来事であり、「3.終盤の危機」はそれを打ち破ることで物語がエンディングを迎えるイベントである。そして、これらに関わってくる昔話として「2.伝説」が存在している。
そしてそれぞれの作品で、これらを貫くポイントが存在している。『凪あす』であれば「人を好きになる気持ち」、カラパレであれば「球体のモチーフ」を見出すことができる。これらについて、順番に比較をしてみたい。5厨なので5要素ぐらい挙げたかったが思いつかなかった。トライアングルの3ということで。
2-1 始まり
『凪あす』で海で暮らす少年少女たちは、成長に伴って陸の学校に通うことになる。そして陸の人・紡との出会いが、まなかの、そして他の光たちの関係に波を立ててゆく。まなかは、紡に憧れのような感情を持っている。この時のことについては、13話にてまなかは自身の想いを紡に伝えている。
まなか「太陽だから。紡くんが、太陽だから」
紡「夜なのにか?」
まなか「だから……かも。もっと眩しいの。ちっちゃいころ、まだ一人で勝手に地上に上がっちゃだめって言われてて、それでもずっと空を見上げてた。憧れてたの。海の向こうの、空の向こうの、ずっとずっと遠くの太陽に。まぶしくて、照らされて、熱くなって……どきどきして。でも……」『凪のあすから』 第13話 「届かぬゆびさき」
ここまで聞けば、さながら初恋の告白のようである。いや、実際そうであるのかもしれない。しかし「でも……」と、まなかは曖昧な部分で一度言葉を切る。まなかは紡へと手を掲げるが、太陽である紡には手が届かないという表現か。まなかはこの13話で既に海(光)と陸(紡)の間で揺れる自身の心に答えを出しているが、その後、海神様のせいで「人を好きになる気持ち」を失ってしまったが故に、この続きが明かされるのは最終回直前まで待たされることになってしまった。25話では、ここからまなかは「海が必要と気づいた」と光のことを想っていることを告げる。しかしそれに気づいたのは紡という外の人に憧れを感じたから……という流れだろう。 また、まなかと紡の出会いを見た光は「誰かと誰かが特別な出会いをする瞬間を見てしまった」(1話)と、ショックを受けてしまう。このように『凪あす』の海の世界に、まず変化をもたらしているのは紡であった。
まなか「海の向こうの、空の向こうの、ずっとずっと遠くの太陽に。まぶしくて、照らされて、熱くなって……どきどきして。でも……」
紡「でも?」
まなか「ひーくんは、海なの。私、海から出てきて、太陽が輝く地上は楽しくて、どきどきしたけど。海がそこにあったから、だからこそ地上に憧れることもできたんだって気づいたの。私は海のそばじゃないと、エナが乾いて、息ができなくなる」
紡「それって、光を好きだってこと?」『凪のあすから』 第25話 「好きは、海と似ている。」
『カラパレ』において、最初に変化をもたらすものは「村の映画館の廃墟」であり、「キネオーブ(映画が見られるフィルムのような球体)」であった。太陽に憧れたまなかのように、ソナタが映画館やキネオーブについての"ドキドキ"を語っている。まるで恋について話すようである。
ソナタ「ち、違うの! 好きっていうか……もちろん、好きなんだけど……こんな気持ち、始めて。あのね、あのキネオーブの絵が、こう一杯に広がった時に、胸がぎゅーってなって、頭がふわってなったの! だから、絶対もう一度見てみたい! あのワクワクと、ドキドキと、ハラハラキュンキュンを感じてみたいの!」
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第2話「キネオーブがこんなに」
この後、パーレルの5人は映画館を再開させていくとともに、いろいろな新しいことに出会ってゆくことになる。
『凪のあすから』 第1話「海と大地のまんなかに」
2-2 伝説
続いては「2.伝説」について。便宜上、ここでそれぞれの伝説に命名をしておく。『凪あす』の汐鹿生に伝わるものを「おじょしさま伝説」『カラパレ』のパーレルに伝わるものを「真珠伝説」とする。
それぞれの伝説はどのような内容であったか。まず「おじょしさま伝説」から。
海神様は陸からの生贄の女性であるおじょしさまに恋をしたが、おじょしさまには陸に残してきた想い人がいた。しかしその想い人は、おじょしさまが死んだと思い海に身を投げ帰らぬ人となってしまった。おじょしさまは海神様と子をもうけるが、しかし残してきた想い人を想って、一人泣くことがあった。海神様はそんなおじょしさまを不憫に思うが、同時に想い人が既に帰らぬ人であることも知っていた。そこで、海神様はおじょしさまを陸へど帰すが、おじょしさまが傷つかぬようにと「人を好きになる気持ち」を奪ったのであった。しかし、おじょしさまは海神様のことをも既に愛していた。そうして海の中には、おじょしさまの「愛する心を無くしたくない」という想いが漂っていたのであった(26話)
「真珠伝説」はどのようなものだったか。
パーレル旅の商人が天から星が落ちるのを見て、自分のものにしようと思った。星を探して進んだ先には、大きく美しい真珠であった。旅人が真珠に触れると、真珠は激しい光を放って砕け散り、散った光の粒はクラゲとなった。商人は真珠を壊したことを後悔したが、どうすることもできなかった。その帰り、商人は岡の斜面に一つだけクラゲにならず残っていた真珠の粒を見つけた。商人はそこに村を作り、住むことを決意した。それがパーレル村の成り立ちであった(10話) そして砕けた真珠は、今もどこかで小さな光となって輝いている(12話)
『凪あす』の「おじょしさま伝説」は、伝説ではあるものの、作中では実際に海神様の力が存在し、また海中には"おじょしさまの想い"が漂っていて、かつて本当に起こったことである、という位置づけである。作品のクライマックスの展開にも絡んでくる昔話であり、海神様とおじょしさまの悲哀の物語に決着をつけることは、“凍りついた凪の海"という問題解決のための重要な出来事でもあった。
一方の「パーレルの真珠伝説」は本当に伝説めいていて、これだけ聞くとわりと掴みどころがないような話に思える。なので、この伝説というのが何を表現しているのか、ということを考えていく必要がある。もしかすると作中世界では、大きな王国が崩壊して王族がひっそりとパーレル村に住んだ、みたいな歴史が裏にあるのかもしれないが、それについては想像の域を出ない。
しかし作品における意義としては解釈の余地がある。美しい真珠というものもいつかは砕けてしまう、しかしそれでも真珠はクラゲとなり、小さな光となり、海を照らし続けている――姿を変えているが、それでも姿を変えて、光はずっとそこにある。変わりゆくなかで変わらずそこにある素晴らしさを説いている。このあたりは『カラパレ』を貫く「球体のモチーフ」について整理しつつ改めて解釈したい。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第10話「これ、どうやって撮るの?」
2-3 終盤の危機
最後に「3.終盤の危機」について。クライマックス直前に登場人物が閉じ込められてしまう展開を振り返る。
『凪あす』では、はじめにまなかが、そして終盤に美海が閉じ込められる。まず1クール終盤、光たちが再現した「おふねひき」の儀式に呼応し海は荒れ、船に乗っていた光たちは海へと放り出されてしまう(13話)
光たちが順番に目覚める中、まなかはおじょしさまの代わりとして海神様に囚われている。儀式で使われた人形たちが沈んでいる「おじょしさまの墓場」の中央のエナの繭の中で、まなかは眠り続けている。そしてそんな状態のまなかのエナが少しずつ剥がれ続けている。まなかを発見した光は、エナを失った彼女が溺れてしまうことを危惧し、繭を破ってまなかを陸へと連れてゆく。するとまるで海神様が怒っているように、海は荒れ始めた(18話)
再び行われる「おふねひき」のさなか、やはり海は荒れ、光たちの乗る船は大波に飲み込まれてしまう。海中に沈んだ美海は、かつてのまなかのようにエナの繭の中に囚われてしまう。光は美海を救おうとするが、エナの繭に拒まれうまくいかない。「人を好きになる気持ち」がこの事態を引き起こしたことを受け光は「人を好きになるって最低だ」「奪ってくれよ海神! 俺の誰かを好きになる気持ち! そんで、美海を助けてくれ!」と叫ぶ。それは、おじょしさまから「好きになる気持ち」を奪った海神様の行為と重なる。そんな中、エナの繭の中の美海には意識があった。海に溶けた想いと触れ合ったことで、おじょしさまの中には海神様をも想う気持ちがあったことを美海は知ったのだった。かつて彼女自身が光にそれを教えられたことを振り返りつつ「好きな気持ちは、だめじゃない」と光を想う。そして荒ぶる海神様は今になっておじょしさまの心を知り、他者を愛する熱を取り戻す(26話)
鱗様「おじょしさまの代わりにまなかを手に入れ、海に溶けた海神の剥き出しの感情は落ち着き、海は凪となった。傷つかなければ波が立つこともない。しかし、そこに悲しみはないが、同時に喜びもない」
『凪のあすから』 第26話「海の色。大地の色。風の色。心の色。君の色。~Earth color of a calm~」
『カラパレ』ではカノンが結晶の中に閉じ込められて(閉じこもって)しまう。作品内で、マーメイドは「心や体に無理がかかる」ことで、こうした「結晶現象」が起こる、という設定が存在しており(1話)カノンがパーレルに来たのも都会のオーディションで声が出なくなってしまい、それによって結晶化してしまったからである(3話)
パーレルで楽しく過ごしていたカノンだったが、ある時発見した古いキネオーブを発見する。そんなカノンの元に、都会での保護者、ヴェラータから手紙が届く。それはカノンに「再びオーディションを受けてみないか」という誘いの手紙であった。思い悩むカノンだが、ソナタたちに励まされ少しずつ元気を取り戻す。そんな中、カノンは古いキネオーブをみんなで見ようと再生するが、傷んだキネオーブは再生とともに砕けてしまった。そのショックがトリガーとなり、その夜、カノンは再び丸い結晶の中に閉じこもってしまう(11話)
4人はカノンの結晶化の理由を考えるが、カノンが「パーレルで5人いっしょに暮らす」「都会でアイドルに再挑戦」という2つの選択の間で悩んでいたことに気がつく。そして、そんなカノンに寄り添うということは、つまり都会でみんなでオーディションに挑戦する、ということになる。考えもしなかったアイドルという未来にソナタたちは戸惑うが、キャロは「映画館もやってみたら楽しかった。歌うのもどきどきする」と話す。4人は自分たちの進路について答えを決め、修復した古いキネオーブを再生する。やはり傷んでいたキネオーブは再び壊れてしまうが、無音の中、4人は「いつも5人で歌った歌」をカノンのそばで歌う。それに呼応してカノンを閉じ込める結晶は砕ける(12話)
きらきら 光ってる海も越えて
みんなで見てる夢は まるでシャボン シャボンシャボン / カラフル・パストラーレ
『凪のあすから』 第26話「海の色。大地の色。風の色。心の色。君の色。~Earth color of a calm~」
2-4 反復されるもの
そして、これら作品における3つの要素の中で、それぞれの作品を貫く重要な要素/モチーフが反復して現れているのだ。
『凪あす』であれば作品の言葉を借りて「人を好きになる気持ち」だろうか。
『カラパレ』の場合は「球体のモチーフ」がここで繰り返されている。
それぞれ作品を貫く反復要素がどう展開されていくのか、ということを整理する。
『凪あす』の「1.始まり」では紡の登場によって人間関係に波が立ち、またまなかが紡に憧れ、光がそれにショックを受ける。光とまなかが揺れることで、光を空いているちさき、またちさきを好いていながら一歩引いている要にも影響を与える。外からもたらされた刺激が、各々の「人を好きになる気持ち」を活性化させている。ここからスタートする恋愛ドラマによって「人を好きになる気持ち」ということが、痛みを伴うということも示される。
「2.伝説」の「おじょしさま伝説」でも「人を好きになる気持ち」が重要である。海神様はおじょしさまの「人を好きになる気持ち」を奪ってしまう。この伝説の再演によって、一度海神様に囚われたまなかは「人を好きになる気持ち」を奪われてしまっている。海神様は「人を好きになる気持ち」のもたらす痛みを嫌って、そこから逃げたことになる。
「3.終盤の危機」ではかつてのまなかと同じように、今度は美海が海神様にとらわれてしまう。ちなみに第2クールで互いに光を好いているまなかと美海は近いキャラクターとして作られていることが伺え、弱った光が髪を下ろした美海をまなかと見間違えるシーンもある(20話) 美海はかつて母を失っており、「人を好きになる」ことそのものを恐れている子どもだったのだが、光に励まされてそれを乗り越えている。そうした経験を経て「人を好きになる気持ち」を受け入れた美海は、光や海神様にも「人を好きになる気持ち」の素晴らしさを伝え、物語はフィナーレへと向かう。
『カラパレ』の「1.始まり」は、ソナタたちが映画館を見つけることから始まる。いろいろな世界を見せてくれるキネオーブはワクワクするものの象徴であって、そしてキネオーブは球体である。外から来た、で言えば、結晶化したカノンもまた「球体」として来訪している。ここは『凪あす』の紡が加わる構図と近いものもあるか。
「2.伝説」は「真珠伝説」であり、大きな真珠が割れて姿を変える、という伝説が語られる。言うまでもなく、真珠が「球体のモチーフ」である。
「3.終盤の危機」では、カノンが再び結晶化で閉じこもってしまう。ここでカノンの結晶は「球体」、割れたことでカノンがショックを受けるキネオーブも「球体」である。これらの中で、真珠が割れる、キネオーブが割れる、カノンの結晶が割れる――と、「球体のモチーフ」が割れるという展開が反復されている。「球体」が割れることは悲しいことではあるが、ラストで「砕けた真珠が形を変えて輝いているなら素晴らしいこと」と伝説の続きが明かされ、それが展開のアンサーにもなっている。
この変化を受け入れる姿勢によって、カノンの悩みである「パーレルで5人いっしょに暮らす」「都会でオーディションに挑戦する」という選択肢は「5人でいっしょに都会でオーディションに挑戦」という答えを出す。つまり、パーレルという場所(映画館)が失われても、5人いっしょの場所は失われないということが、真珠が形を変えて輝いている、という伝説で示唆されている。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第1話「パーレルへようこそ」
| 凪のあすから | バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~ |
|
|---|---|---|
| 1.始まり | 紡との出会い 「人を好きになる心」が痛みをもたらす |
映画館(キネオーブ)との出会い 映画館が5人いっしょの居場所になる |
| 2. 伝説 | 「おじょしさま伝説」 「人を好きになる心」を失う |
「真珠伝説」 真珠が割れても、小さな光となって輝いている |
| 3. 終盤の危機 | 海神が美海を解放する 「人を好きになる心」を受け入れる |
4人が一緒に都会へ行くことを決め、カノンの結晶が割れる 形を変えても失われるわけではないことを知る |
こうして見てみると、これら三要素には近い部分がありつつも、その展開のしかたには差異があることがわかる。
『凪あす』では「人を好きになる気持ち」というを取り戻し、それに伴う痛みも受け止める、という展開になっている。「人を好きになる気持ち」というのは自然に発生するもの、いわば世界にあるべきものである。だがそこに痛みが伴うことで、海神様はそれを取り除こうとしてしまった。おじょしさまの代わりに一度海神様に囚われたまなかは「人を好きになる気持ち」を奪われてしまい、結果として好きにまつわる相手に関わる記憶を忘れてしまっている。
ところで、痛みを受け入れる物語については、美海にそのドラマが多く用意されていた印象である。第1クールで、美海は妻を亡くした父の再婚相手の灯を、はじめ毛嫌いしていた。しかし実は灯と美海は昔からの付き合いであった。仲がよくてもその人が母親になることは複雑なのだろう、と周囲は理解していたが、美海の本心は異なっていた。母親というのは美海にとっては「大切で、そしていなくなってしまった人」なので、灯が母親になることで、また大切な人がいなくなってしまうのではないか、ということを恐れていたのだ。母親の喪失に美海が傷ついているのは、美海が母のことを好きだったからである。すなわち、この美海のエピソードは「人を好きになる気持ち」に伴う痛みを受け止められるかどうか、というものだったのである。
結果として、光に「人を好きになる気持ち」は悪いものではない、と教えられた美海。そういうこともあって第2クールの美海は「人を好きになる気持ち」に対して臆していない力強さがある。自分は光のことを恋慕しながらも、光の想いはまなかに向いていることを知っていて、複雑な気持ちを抱えている。それでも光とまなかが結ばれるように光に働きかける美海は本当に健気で泣けるのだが、さておき、ラストでは失恋の痛みを受け止めつつも前を向く彼女の姿が描かれている。喪失の悲しみを乗り越え、失恋の切なさを受け止め、「人を好きになる気持ち」を受け入れている。こうした美海の最後の姿は、この作品の描いてきたものを表現する象徴的な姿だったと感じる。
美海「地上で暮らしていた私は、海の人を好きになった。その初恋で流した涙は、優しい海に溶けていった。全てを溶かしたその海は、これからも新しい命と、新しい想いを産んでいく」
『凪のあすから』 第26話「海の色。大地の色。風の色。心の色。君の色。~Earth color of a calm~」
ともかく、『凪あす』の「人を好きになる心」を取り戻すという戦いは、世界にとってあるべき姿を取り戻すということでもあった。それはクライマックスで海が元の姿へ戻る兆しを見せることと重なる。
『カラパレ』の「球体のモチーフ」はどのように繰り返されているか。これは真珠伝説を軸にするとわかりやすい。真珠というのは素晴らしい宝物であり、球体のモチーフもそうした受け取り方ができる。映画館で発見したいくつものキネオーブは、ソナタたちにとって知らないワクワクをもたらす素晴らしい宝物であった。また、新しく4人の素晴らしい仲間になったカノンも、パーレルに球体として配達されてきた。しかし、形あるものがいつかは壊れてしまう。古いキネオーブは割れてしまう。真珠が伝説の物語の中で割れてしまったように。
映画館という所はキネオーブ(球体)があった場所で、5人にとって素晴らしい居場所の象徴であった。そしてカノンは、古いキネオーブ(球体)が壊れたことをきっかけに、球体が壊れることを拒否するかのように、再び結晶に閉じこもってしまう。
カノンはオーディションという夢にもう一度挑戦したい。そのためには今あるパーレルの映画館という5人いっしょの居場所を捨てなくてはいけない。4人にとっても、自分たちが都会にいけば映画館という素晴らしい場所は再び朽ちてしまう。しかし、少女たちは「5人いっしょ」に都会に行くことを決める。更に映画館は、カプリたち次の世代の人魚たちが守っていく、と立候補する。結果的に、映画館は違う形であるが残る。「5人いっしょ」の居場所もパーレルから都会へと移るが残る。
形が変わっても、そこには変わらない価値がずっと残っている。それは砕けた真珠が、小さな光となって輝いている、という伝説のラストを素晴らしいものとして称える言葉で表現されている。
ソナタ「伝説のことを時々考えます。真珠が粉々に砕けたことは悲しいことだけど、いくつもの破片が今もどこかで、小さな光となって輝いているとしたら、それは、素晴らしいことだと思います!」
『バミューダトライアングル~カラフル・パストラーレ~』 第12話「小さな光となって輝いて」
面白いのが、キネオーブがあった映画館という場所も、真珠伝説の結末も、新しく生まれたものではない。映画館は朽ちた建物がずっとそこにはあったし、真珠伝説もずっと語り継がれてきたことである。既に実はずっとそこにあったものなのである。つまり、『カラパレ』にとって世界というのは最初から素晴らしいものなのであり、ソナタたちはそれを"発見"したに過ぎない。
割れた真珠が小さな光となって輝くのも、世界が素晴らしいということに"気づく"ことなのである。小さな光が海に満ちる結末も、世界そのものが輝いているイメージを想起させる。
『カラパレ』にとって、世界ははじめからあるべき姿であり、それを再確認するという物語だった。海はずっと光り輝いているのだ。
このように「2.伝説」の転がし方を比較しても、『凪あす』の「おじょしさま伝説」が悲しき結末に現代で新たな真実を書き換えていることに対し、『カラパレ』の「真珠伝説」は、そこにある世界の素晴らしさに気がつくための補助線、という違いがある。
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』 第12話「小さな光となって輝いて」
3. 海中の子どもたち
海という舞台、そしてそこに伝わるそれぞれの伝説。共通項が見いだせるこの2作品の違いをここまで比較してきたが、最後にこの2つの違いによって何がもたらされているのか、ということについて考えていきたい。
まず伝説との距離について。『凪あす』の「おじょしさま伝説」は、かつて実際にあったこと、とされている。海神様の御霊火や、その剥がれ落ちた鱗である鱗様が今も作品世界で残っている。ここでの伝説は、作中世界と地続きである。
一方で、『カラパレ』の「真珠伝説」というものが実際にあったかどうかはわからない。この伝説の物語は作品が表現していることに気づくための補助線として機能しているが、あくまでその距離は離れていて、作中世界と地続きとはいい難い。
この差異について、一つ飛躍した仮説を立てたい。この「作中世界と伝説の距離」を「私たちが生きる現実と、物語であるアニメの距離」に置き換えることはできないだろうか?
すなわち『凪あす』は我々の現実と地続きの物語であり、『カラパレ』はそうでないのではないか。
ここで、今までこの記事で比較してきたそれぞれのアニメのポイントについて、改めて比較してみよう。
| 凪のあすから | バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~ |
|
|---|---|---|
| 登場人物 | 人間 | 人魚 |
| 子どもの時間 | 流れが早い | ゆっくり流れる |
| 世界の姿 | あるべき姿を取り戻す | 始めから素晴らしいことを知る |
こうして見ると『凪あす』では現実に即していた部分が『カラパレ』ではそうではなくなっている、と捉えられるのではないだろうか。
『凪あす』は海と陸を舞台にするにあたってファンタジーの設定を用いているが、あくまでそこで描かれているのは、現実を生きる私たちと同じ人間の姿である。
一方の『カラパレ』では不思議と生活様式は人らしいのだが、あくまで人魚の話なのである。
それぞれの作品のクライマックスを比較しても、その違いが浮き彫りになる。
『凪あす』では"凍りついた凪の海"が、最後には少しずつ動きのある海へと戻ってゆく。人々は「人を好きになる気持ち」を受け入れる。ここで「人を好きになる気持ち」の荒ぶるものが海に重ねられてもいるわけだが、こうして『凪あす』のクライマックスであるべき姿へと戻っていく海の姿は、現実の海の姿なのである。
私たちは『凪あす』の最後、海が私たちの見知った姿に戻ることに安堵する。最後にエナを得た陸の人も登場し、陸と海は行き来できる。陸も海も、どちらも人の領域の世界なのである。
『カラパレ』の海の中のパーレルの世界はずっと穏やかである。『凪あす』では海の人と陸の人の争いが描かれていたが、基本的には海の中だけの『カラパレ』の世界は穏やかで、そして素晴らしさに満ちている。それは、痛みを伴う私たちの世界とは少し違うようにも思える。『カラパレ』の海中はずっと人魚たちだけの領域で、そこに人の姿はない。このアニメの主題歌は「Wonderland Girl」というタイトルだが、その名の通り 『カラパレ』の海の世界は私たちにとって"ワンダーランド"であり、たどり着けない夢の場所なのではないか。
そして、この"ワンダーランド"では、ゆっくりと時間が流れ、生まれた場所を巣立っても、子ども時代がもう少し続いてゆく。それもまた、私たちにとっては夢の世界であることに他ならない。
『カラパレ』のクライマックスで、ソナタたちは生まれ育ったパーレルを離れ、都会へと移るシーンで終わる。パーレルの人々はテレビで、その姿を見ている。『カラパレ』で描かれた終わらない子どもの時間は、私たちにとってはもう画面の向こうのもので、届かないものなのである。
さて、私は最初に、この両作品が「海中で汁/茶を飲む」という、海の中というファンタジーの舞台でありながら、その生活様式が陸の私たちのそれと近すぎる、という奇妙な描写から始まるということについて書いた。こうして色々と考えてみると、それぞれの描写にも納得感が出てくる。
『凪あす』はファンタジー世界でもあくまで人の話なので、その生活様式を変えると"私たちの話"から遠ざかってしまう。実際公式サイトのインタビューでも「SF寄りの設定も考えていたが、その場合設定の比重が大きくなりすぎて、目指そうとしていた物語とは離れてしまう」と篠原監督が語っている。4
『カラパレ』も人魚の生きるファンタジー世界でありつつ、私たちはそこに自らの子ども時代を重ねていくという、そういう作品であると考える。だから海の中でお茶を飲んだり、パンを食べたりするのである。その描写に私たちは親しみを覚えるのだ。
『凪あす』と『カラパレ』はどちらも海の中で生きる子どもたちの心の動きを、繊細に掬いあげた作品であった。
しかし『凪あす』ではその子どもたちが「大人になっていく」物語であるのに対し、『カラパレ』は「もう少し子どものままでいる」物語という違いがある。
もう大人になった私たちは、その子どもたちの姿に、近さと遠さをそれぞれ感じる。こうして共通項を持つこの両作品は、その差異によって私たちに異なる感情を呼び起こしているのではないだろうか。
『凪のあすから』 第26話「海の色。大地の色。風の色。心の色。君の色。~Earth color of a calm~」
おわりに ――『カラパレ』を『凪あす』の変奏として読むことについて
さて、ここまで『カラパレ』を『凪あす』の変奏としての作品として読むことを試み、両者を比較してきた。最終的には思ったよりも共通項を見いだせたと思うが、この比較によってそれぞれが描いていることの差異というのも浮き彫りにできたのではないだろうか。
結論として『カラパレ』が『凪あす』の変奏的作品であることが、冒頭の共通するスタッフの意図によって生み出されているものかはわからないものの、しかしこの着眼点から進めていくことで、なかなか面白い読解ができたのではないか、と思っている。
『凪あす』と『カラパレ』は、一見して全く異なる作品故に、これまで海中の描写の繋がりがまれに指摘されるぐらいで、なかなか並べて語られることはなかった作品であると思う。
私も『カラパレ』が遠因の一つとなって『凪あす』を見たのだが、非常に面白い作品で感動し、非常によい出会いをすることができた。どちらも素晴らしいアニメ作品だと思うので、もしこの記事が、どちらか片方の作品しか知らない方にも、もう片方を見るきっかけとなるならば、それより嬉しいことはない。
というか、こんな長くて10年近く離れる2作を急に比較した話がやっぱりどれぐらいの人に届くかわからないけれど。こんなテーマでここまで読んでくださった方がもしいたら、それだけで感謝の気持ちが止まらないかもしれない。
ところで、そもそも『カラパレ』というのは結構奇妙なアニメで、というのもこれはブシロードが販売しているTCG「カードファイト!! ヴァンガード」のアニメなのだが、全くもって販促アニメらしくないのである。題材となったヴァンガードのクラン「バミューダ△」は人魚の歌姫たちがでてくるアイドルモチーフのテーマなのだが、『カラパレ』はいずれアイドルになる少女たちの話としても、基本田舎の村でのんびりと過ごすアニメだし、いくら作中世界の掘り下げとは言っても、正直これを見てカードゲームがやりたくなることがあるのだろうか……と、結構疑問だった。5
だからどういう企画でこのアニメが出てきたのか、結構不思議に思っていたのだが、西村監督のアニメとしては、PA.WORKS時代の思春期の子どもたちのアニメ『true tears』『グラスリップ』そして監督作ではないものの『凪のあすから』そのあたりの系譜として見る方が、個人的にはしっくりくるように思える。
ちなみに、PA.WORKSは私の出身である富山県のスタジオということもあってか、田舎を舞台にすることが多く、これらの作品も都会とは少し離れた場所の物語であった。
子どものころ、別にそんなに特別海が好きだったわけでもないような気がするのだが、大人になってから海を見ると不思議となんとなく安心するような懐かしいような、そんな気持ちがシャボン玉のように浮かび上がってことがある。
それは長い歴史の中で海から生まれた人間という種の本能なのかもしれないし、あるいは私にとって、海と故郷が重なっているからなのかもしれない。
富山湾・入善沖洋上風力発電所(2025年5月、筆者撮影)
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本記事の画像は全て、以下作品より引用。
『凪のあすから』 ©Project-118/凪のあすから製作委員会
『バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~』©CP△
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『グラスリップ』は正直あまり世間の評判はよろしくはないが、実際のところ傑作(断定)で、個人的にはPA作品で今のところ一番好きなレベル。ラストシーンのビー玉の描写は『カラパレ』に共通する球体のモチーフを想起する。これもやろうと思えば『カラパレ』と比較ができるかも。 ↩︎
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このセレナの拘りがセレナなりにカノンの歓迎をアピールしている優しさなのか、あるいはカノンがいなかった頃の4人をセレナが「正直、4は美しくないんだよな……」と思っていたかどうかはカラパレファンの間でしばしば議論されていることである。 ↩︎
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『スロウスタート』アニメ後範囲の原作の展開が本当に素晴らしいので、早くアニメにして欲しい。 ↩︎
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ブシロードのTCG販促アニメだと、私が好きな作品に『ひなろじ~from Luck & Logic~』などがある。それは作中のカードゲーム世界を描きつつ、同時に美少女日常モノをやって、ちょっとバトル要素も加えて……と結構販促アニメっぽい側面もあったりする。 ↩︎